日雇い派遣など流動性が高い働き手が増えるにつれ、不安定な働き手が居場所としてYuに定着する例も増え、加入してもやめていく状態に変化も出ているという。
Yuがさまざまな会社に労組をつくって権利を獲得する動きが活発になるにつれ、ゼンセン系の労組が、会社と対話できる労組の設立を打ち出して同じ社内に新労組をつくる例も目立ってきた。
会社の業績向上に協力する姿勢が強いゼンセン系と、労働問題を社会問題としてとりあげ、会社との対決姿勢をとることも多いYuが対立する局面も生まれているが、ばらばらにされた働き手たちを束ねる場所としてのYuが広がり、こうした働き手の声がまとまり始めたことは、○八年の大量の「派遣切り」が、目に見える社会問題として発信されている。
「Yuってどんな感じ?う〜ん、いい感じ、かな」。
郵便局の非正社員労組の若者の発言に、笑いが巻き起こる。
○七年九月、東京・中野で開かれた「YuYeSl」のキャンペーンの発足集会で、多様な職場の二十〜三十代が「Yu体験」を語った。
増えてきたYuの参加者が、一同に集まって、労組の大切さをアピールしようという試みだった。
公募で選んだキャンペーンのキャッチコピーは、「希望は、Yu」だ。
ポスターのコンテストも、美術学校の学生らに呼びかけて開くことにした。
この前年、派遣Yuは、旦雇い派遣のGwなどが賃金から違法に天引きしていた「データ装備費」問題を明るみに出した。
きっかけは、実態をつかむため同YuのSs書記長(四十四)や、フリーター全般労組のメンバーらが、日雇い派遣に登録して働いたことだった。
相談電話だけでなく、実際、現場に入ったことで、日雇い派遣は労働の過重さに比べて賃金が極端に安いこと、安全面での教育がほとんどされていないことなどを体験、違法な天引きの横行の告発も、ここから始まった。
いく契機になった。
「とにかく現場へ」の大切さは、九九年、米国で学んだ。
米国の大手労組AFL‐CIOは、CR政権下の九○年代半ば、清掃労働などに就いていた不安定な移民労働者を組織して、組織率をいったん持ち直させたとして話題になっていた。
その手法を見に行こうと、Yuのメンバーが誘い合って、米国労組での研修ツアーを企画した。
日系ホテルのレストランに行かされて、客として食事しながら「なぜ労組に入らないのか」と従業員に聞く。
従業員名簿をもとに「パーティーをやるから来ないか」と電話をかけ、一人一人の意見を聞く。
流動化し不安定化した働き手が急増する中では、現場に出かけて一人一人の抱える問題を聞いて回るしか、働き手の支えになる活動はできないと思った。
その思いが派遣Yuの活動で生きた。
米国の後を追うように雇用の不安定化が進む日本で、不安定労働者の労働運動を目指すYuが連携し、○七年春には初の「ワーキングプア春闘」に取り組んで時給引き上げなども実現した。
「YuYeS!」のキャンペーンは、こうした中で、「会社べったり」「ダサイ」「暗い」といった労組のイメージを塗り替え、新しい労組の姿を伝えようと、映像ディレクターのTTさん(三十六)らビデオジャーナリストや、Yuのメンバーが提案。
ガテン系連帯や首都圏青年Yu、女性Yu東京なども参加した。
派遣旅行添乗員の女性(三十八)は、正社員と同じ仕事なのに年収は約二百二一十万円。
深夜まで働いても日当は同じ。
雇用保険もなかった。
高校生から「将来は添乗員になりたい」と相談されたが、食べていけない待遇に「やめた方がいい」としか言えなかった。
そんな自分に嫌気がさし、後の世代のために働き方を変えようと、添乗員のためのYuをつくった。
労使交渉の成果で、深夜手当を出す会社も出てきた。
「労組には、暗いとか固いとか、偏見があった。
でも、つくってよかった」。
郵便局の非正社員の男性(三十一)は、班長に休みや配置の件で不満を言うと「課長に言え」と言われ、課長に言うと「班長に」と言われた。
たらい回しにされ続けたが、労組を通じて交渉すると、やっと耳を傾けてもらえたと話した。
首都圏青年YuのYsさん(二十四)のもとにやってきた二十代の男性美容師は正社員。
朝十時から夜十一時までビラを配り続け、腰を痛めた。
だが、労災とは認定されず、Yuに入って厚生労働省に要請行動に出かけた。
厚労省の担当官に「死ななきゃ労災はおりないのか」と怒りをぶつけたことで、「おかしいことはおかしいと言ってもいいんだ」と自信を取り戻したという。
キャンペーンの目玉は、労組の活動を紹介する映像を公募し、サイトで公開する「Yuチューブ」だった。
ネットカフェで寝泊まりする人も、パソコンならアクセスしやすいと考え、米国の動画サイト「Ub」を参考に立ち上げた。
店長のサービス残業が問題になった紳士服会社のkや、Gwで労組をつくった若者らも、自分たちの活動をビデオで撮影した作品を制作。
「YuT」を通じて、二十本以上が流された。
キャンペーンで事務局長を務めたTさんも、二十代のときに映像制作会社を解雇された経験がある。
いくら残業しても残業代は払われず、いきなりの解雇通告だった。
Yuを通じた解雇撤回を求める労使交渉で解決金を獲得し、ビデオカメラを買った。
これを「商売道具」に、労働運動を撮影するようになった。
Tさんが自主制作した映画「フツーの仕事がしたい」は、セメントを輸送するトラック運転手がYuに加入して会社と交渉する経過を、Yuの依頼で、つきっきりで撮影したドキュメンタリーだ。
撮影をTさんに依頼したのは、生コン運転手の労組に長くかかわり、ガテン系連帯の設立で製造業派遣の問題点を明るみに出したKTさん(五十三)だった。
生コン運転手も製造業派遣も、大手企業の正社員には想像できないような状況で働いている。
そんな現実を幅広く共有してもらうには、映像が最適と直感したからだった。
「フツーの仕事がしたい」は、Tさんと同じ三十代後半の運転手が主人公だ。
大手セメント会社の下請けの中小企業で働いていたが、賃金は運んだ量に連動する歩合制で危険な過積載を引き受けないと食べていけない。
一カ月の労働時間は四百〜五百時間にも及んだ。
たまりかねてKTさんがかかわる労組にかけこんだ運転手を、会社は「三十万円やるから組合をやめろ」と脅し、母親の葬式にまできて暴力を振るった。
その一部始終を撮影していたTさんも殴られるが、ビデオが証拠になり警察が捜査に乗り出す。
圧巻は、大手セメント会社前の抗議行動の場面だ。
夕暮れの本社前に集まったYuのメンバーたちが幕を張り、急ごしらえのスクリーンができる。
そこに、Tさんが撮影した下請け会社の暴力シーンが「上映」される。
「労働者を殺すな」のシュプレヒコール。
映像が労使交渉の武器に転化した瞬間だ。
カメラは、暴力映像をつきつけられてあわてる本社の背広姿の社員たちの顔も映し出す。
大手セメント会社は暴力を振るった下請けとの取引をやめ、新会社を設立。
運転手たちは新会社に移籍、争議は勝利する。
「ワーキングプアは、当事者が労組を通じて声を上げたことで表面化した。
報道では働き手の悲惨さばかり強調されるが、労組が解決のカギになりうることも知ってほしい」とTさんは言う。
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